昭和49年03月21日 朝の御理解
御理解 第75節
「人を殺すというが、心で殺すのが重い罪じゃ。それが神の機感にに適わぬ。目に見えて殺すのはお上があってそれぞれのお仕置きにあうが、心で殺すのは神が見ておるぞ。」
教祖様のお言葉お話の中に、家族の方達に御理解をなさっておられるんです。お言葉の中に、先日読ませて頂いた本の中にありましたが、人を恨んだり憎んだりする心で願ってもおかげにならん。例えば、あいつはと思うたり、どうした悪い奴じゃろうかと思うたり、そういう心で願ってはおかげに成らん。子供の事でも、どうして言うこと聞かんじゃろうかと、親不孝者がと心に思うて、神様に願ってもおかげにならん。所が事実は子供なら子供達の場合でも、目に余る様な事があったりする。ね。
本当に憎まなければおられない。是は対人関係の場合にね、本当に恨み骨髄に撤すると云った様な人間関係が生ずる場合もあります。けれどもそういう心でね、言うならば恨んだり憎んだりする心で、なら御祈念をしても神様は聞いて下さらないという訳です。ですから自分の心をね、反対にそれとは反対に、人が助かる様な心の状態で願わなければならない。どうして言うこと聞かんじゃろうかと言うのではなくて、言う事を聞かせ切らんのが言うならば私だと言う風に気付かせて頂く。ね。
お前の様な奴はと言う様な心ではなくてです、もう私の様な奴はという自分の方に奴を付ける頂き方、そして願ってやる。そして願わせてもらうと云う事にならなければ、おかげにならん。向うが憎むからこっちも憎み返すと、例えば云う事であったらもうそれは信心のある者もない者も同じ事になる。けれども本当に、確かにそうだなあと思うですねえ。此の頃からの念力の話が出ておりましたが、人のそういう例えば憎むとか恨むとかという此の念と言う物、是は憎むとか妬むとかね。
此の念と云う物はね、その心は本当のものですからね腹が立つ。それはもう本当に腹が立つという心は嘘じゃないんです。本当に立ってるんです。是はもうだからその腹の立った心でね願うたっておかげにならん。もうその証拠には腹が立ったりするとですね、もう形相から変わる人間の、あいつはと思うたら目が釣り上がった様になってね、人相が変わって来る。腹を立てるというたら、第一真っ青になるでしょう本気で腹を立てたら。ね。其の位にあるのです。
只信心とはそれとは反対に、恨む所か妬む所かね、又は腹の立つ所から、本当にそれが有難いとか、勿体ないとかと云う風に矢張り変えられて行く心が、変えられて行くと云う所に信心の、言わば値打ちと云う物があるんです。段々おかげを頂いて、その念力と云った様な物が強くなって参りますと、愈々有難い事も言うならば、念力で言わば拝み出すとでも申しましょうかね、けれどもなら悪い事でも、反対にそういう悪い念力を向うに送ると、向うが病気をしたり、死んだりする様な場合がある。ね。
心で殺すという意味はそう云う風に、だから殺しゃせんでも傷付ける。あれが憎うしてたまらん、と言う事になったら、相手を傷付ける様な事があると思うですね。そこでなら私達も矢張り憎まれたり妬まれたりする様な場合は、そういう悪念邪念と言う物がこちらへ、こう目には見えないけれども集まって来る。だからそれをなら向うの方へ押し返す様な働きというのが金光教で言うなら『和賀心』だと思うです。なら『和賀心』の前には、そういう悪念邪念でも向うへ跳ね返すのじゃなくてもう其処で消えるんです。
それこそ霜に煮え湯をかけた様な働きが生まれる、と云う様な事を私は体験色々さして頂いております。あれはもう亡くなっておられませんですけども、もう山口県の田布施という所に、踊る宗教と言うのが御座いました。今でもやっぱりあるでしょうね。二代か三代目の人が、お婆さんで非常に念力が強い方だったらしいですねー。此の人はもう自分の言う事を聞かんと、「お前はそう云う事をしていると怪我するぞ。お前は死ぬぞ」と言ったら、間違いなしに死んだそうです。
だからその人の言われる事が恐くてたまらん。と言うだけに又反対に人が助かった。「助かる」と言うたら助かる。「あんた私が言う事聞かんと、あんた死ぬよ」と言われたある大臣が、そんならと言うてその宗教に入った。そういう話を聞いた事がありますがね。是なんかはだから所謂矢張り、人を心で殺すと云う事になって来る。だから拝む対象が神様が違うと様々な色んな事がありますけども一つの例です。
私共も本当にあのう、何十年間の御取次の御用をさして頂いておりますけれども、様々な実に私があんな思い方をしとったからおかげを落としたんだろうと言った様な例がいくらもあります。もう当時の椛目の時分に、もうそのう邪魔ばっかりする人があったです。人には悪口を言う。邪魔をする。だからあのう、どうしたら良いじゃろうかとやっぱり何時も思っている訳ですね。
その方達はもう本当に何処へ行ったか解らんごとなった。死んでしもうた。例えばだからこの神様に、例えばそういう邪魔をする様な事をして良かろう事のあるはずはないという此の思い方がすでにいけない。神心で言うならば、そういうなら邪魔をする様な、それも神様の比礼としてです、「神様あなたの氏子ですからどうぞ助けてやって下さい」と云う様な願いを持たなければならなかったのに。
そう云う様な言うならば当時の椛目の御比礼に傷を付けたり、又は邪魔をする様な事をすれば、ろくな事なかばいと云う様な思いが心の中にあるんです。だからね本当に的確に何人かの方が亡くなっておる。恐ろしいですよだから念力というのは、それがならこちらの力が付いて来る。昨日の御理解じゃないけれどね、『人力に見切りをつけて神力にすがれ人力自ずから湧く』と云った様なです修行を積んで、言わば人力、自分の心の中にあるその力と云う物が、自ずから湧いて来る様なおかげを頂いた。
その人が人を恨んだり憎んだりしたとしたら、もう本当にそれは恐ろしい事になるです。是ももう二十数年前、私がある教会に泊まりがけでお話しに行っとった。皆んなもう一日中、お話しに押し掛けて見えるんです。それから夜は夜で御祈念が終わった後に、また十人ぐらい皆んな集まって見えましたから、応接台を出して座ってお話しをし出した所が、隣の部屋でもう篳篥(しちりき)をじゃんじゃん吹くんです。
所謂故意である事が解る訳です。そしてですそうですとうとうなんかその晩は、あの時分はもうちょっと色んな邪魔がちょっと入ったら、お話がピシャッと止まりよりました。どうもお話が出来なかった。だから世間話の様な事でその日は皆さん帰られた。そしてその篳篥をしばらく吹きよった人が吹き止めてこちらの御広前に出てきた時には、もう唇がこんなに引っ繰り返って腫れとりましたよ。私がどうした奴じゃろうどうした奴じゃろうとずっと思いよるから、私今日の御理解を頂いてじゃっただろうと。
言うならば、神様にお気付け頂いたと今まで思うとったけれども、今日の御理解を頂いて見るとです、私のその思いがね、どうした奴じゃろうか、それが誰よりも強い念力というか、力を段々持って頂いてきよるからあのうそう云う事になる。ね。私がその人を捉まえてすぐ御理解さして頂いた。ね。明くる朝、朝の御祈念に参って見えましたから、その時にそしてそうですねえ、一時間かほんの一時間位でしたよ、治ってしまわれたのは。そう云う事がありました。
だから今のそれが私ならばです、そう云う事じゃなくて、向うのいうならそういう邪魔をする人を止めさせる位の働きがあっただろうと、向こうもおのずと改心される様な働きになっておっただろうと思う。けれどもどうした奴じゃろうかとこう思う思いがね、念がそう云う事。昨夜は菊栄会でした。丁度一月前の菊栄会の時に、私の部屋に見える方はご承知でしょうけれど、それこそ時価五十万円もすると云われる様な紅茶茶碗のお供えを頂いた。こら見るだけの物ですから。
けれども折角頂いたとに一辺だん使わにゃね。だから来月はどうでんこうでんそれを使わして貰おうと云う事になっておった。だからもう昼から私がそれを綺麗に洗わして、それから紅茶やら、紅茶の紅茶のおつまみやらは皆さんが持って来る。最高の洋酒を持って来る人がある。最高の世界で一流の紅茶ばかり幾つもあのう買って見える。それでまぁ頂いたんですけれども、茶碗も素晴らしいけれども紅茶も素晴らしい。何かには足らわなければいけないですね。
そういう訳で一晩中それこそ何杯もの紅茶をまぁ頂いた訳なんです。私は昨日本当に有難いと思いました事は、私は菊栄会の中には何時も入りませんけれども、昨日そんな風で初めから入って、お茶を頂いておる間は雑談でしたけれど、何かの話からもう一生懸命にお話をし出しましたら、もう暫くの間あのう初めて菊栄会の方達にお話を聞いて頂いた。そしてならもう休まして頂こうという時に、一時回りましたでしょうか。
公子さんが御用しておりましたからそれを片付けた。用心してからもうそれこそ割れたら大変な事ですから、大事にこうやって扱うから、私が言うたんです。「うんにゃ割れるか」と私が「家の物は何でんよかもんは傷もんになるとだから割れるよ」と私がこう言うたんです。そしたらもう三十分後に割れたですからね。もう私が本当に丁度高橋さんと文男さんがまた後の私を揉みに来てくれとりましたから「親先生があんな事仰るからほんなこて割れるなあ」と文男さんがしきりに思うたそうです。(笑)
恐ろしい事でしょう。ね。是はあのう桂先生の御伝記の話をすると、あのうそういうのを言わばあだぐちと言うんですね。「俺んとこの様な貧乏教会でも」という言葉を使われた時に、とっと押さえる様に神様が「松平、お前に何時貧乏さしたか」と言うておしかりがあったと言う事で御座いますがね。私がなぜそう言う事を言うたかというと、家のですね私の方の良い物と言うのは、もうそれこそ五百万もその上もする様な値打ちのある物が幾らもありますよ。
そういうのは必ず傷物になるのですよ家は、だから結局私が思うとったのに、はぁ私はだから傷もんになったちゅうたら、とにかく百円玉でも五十円になるはずですからね、値打ちが無いです、言うなら。ね。いかにこの五十万の紅茶セットがですね。でももう一つひびが入っとったら、もう値打ちが無い訳です。ね。けれども私はあのうそれを公子さんが暫くしてから入って来ましたもん。
何かこうおどおどしよる様子で、所がその一つひびが入った。それもそれはもう公子さん自身も何か改めねばならない事が、何かもあったでしょうけれども、けれども私はもうそれが割れようが無くなろうが、もう惜しいとも欲しいとも、それこそさらさら思いません。思いませんけれどもそれかと言ってお粗末にも決して致しません。これ余談になりますけれど、先日合楽会の中で色々お話させて頂いた「お互いがおかげが欲しい。おかげが欲しいなら、その頂いたおかげを充分に使いこなせれるおかげを。
頂かなければ、神様はおかげを下さらんよ」と言うて、私が三万円の抹茶茶碗を頂いとります。それを皆に見せた。そしたらもう硬い茶碗のあるとこのそばで「ほうこれが三万円もするとですか」領収書がついとるけん三万円と言う事が解る訳です。だからほう先生が言いなさるばってん、やっぱほんなこつだなあと思うて見ただろうと思うんです。そればってん見せとる私はもう、ひやひやするんです。
もう硬い物の上でしかも茶碗ばかり幾つも置いてある所で、ちょっと取ってから見るんですから、皆がぐるっと十何人の者が回して見る。一人も本当な見方をする者がいなかった。だから私は見てしもうてからこう云う物を見る時にはね、一ぺんこうやって応接台の前から退っといて、そして前に言うならばタオルでもハンカチでも置いて、下の方でこうやって見るべきだよとそれが作法だそう言う物を見る時には、だからあんた達が三万円の抹茶茶碗が欲しいと言うても、神様が下さるはずは絶対にないのだ。
見方も知らなんのじゃもん。ね。というてだからそう言う訳おかげが欲しいと言うて、そのおかげの見方も知らない。頂いたおかげの使い方も分からん。いや却って邪悪な事に使う様な事になる様なおかげが神様が下さるはずがないよ。どうぞどうぞと言うて願う事は言いけれども、願って頂いたおかげをです、神様に喜んで頂く様な使い方が出来る稽古を、だから今してる訳なんです。ね。是は余談ですけども、そう言う事がありました。先日の合楽会でした。ね。
私は成程、言わば実感を込めて言うたんです。家の良い物は必ず傷物になる事に昔から相場が決まっとる。だから必ず「それは割れるよ」と言うた。はっきりそしたら三十分後にちゃんとこうーひびが入ってしもうた。ね。ですからあん奴が本当にこの頃信心ば落としとるけん、怪我すりゃよかがと思うたら絶対怪我するんですその人は、ほんなごとあん奴がと私がもし恨んだらです。本当にその人は死ぬるです。
恐ろしい事だなあ。おかげを頂けば頂く程力を頂けば頂く程、その力が有難い方に、人が助かる事の方へ、ね。言うなら心が傷ついとっても、それが癒える程しの働きと言う物を与えれる力を受けなければいけないな。昨日城島から、城島教会の信者と言う人が参って来て、私が此処に出るまで待っとった。どうでも合楽の先生に助けて貰わんならんと言うて参って来る。
もうそれこそ心はぐちゃぐちゃに傷付いておる人だったです。昨日はそんな人が二人ありました。福岡の教会から参って来た人もそうでした。もうこの人は看護婦をして、文男先生のお導きの人でしたけれども、もうあのう病院長と何かがあってから、もうそれこそ心がぐちゃぐちゃだった。けれども私はその方の御取次をさして頂いたら、丁度この百二十人目がこの一番最後になる訳です。此処じゃっただから私申しました。
「家のお届け帳は、は不思議な、是が病人なんかのお届けで一番最後になると必ず死ぬるですよ。そのおかげ頂き切らんですよ。けども普通のご信者さんが此処へ来たらその人はどんな難儀であっても、それを修行で受けたら、大変おかげを頂くよ」というお話を致しました。だからそればそれを見せてね、あのうーこんな尊い修行を他所にやったり、もう仕事止めたっちゃそれは勿体なかばい。
もうそれこそ、もうもう一辺で人相が変わるごと喜びました。そしてもう昨日の御理解を繰り返し繰り返し頂いて帰ったね。人の心がぐちゃぐちゃになっとってもです、そういう私の祈りとか、念を込めた言葉がその様にあのう癒す事も出来る訳なんですね。今日は御理解を頂いたら『人を殺すというが』というこの御理解を頂いたから、私は昨夜の其の事を思うてですね。私が「割れるが」と言うたら、割れたとと言う事、三十分後には。もう本当に惜しいもなからねば、欲しいも思いませんけれども。
本当に良くよく言葉も慎まなければいけないな、力を頂けば頂くほど。ね。仇口を言うちゃならん。また恨んだり妬んだりと云った様な心やらは、もう愈々神様の機感に適わぬ心であるから、例えそれが自分の息子の事であろうが娘の事であろうがです、ね。「この人ばっかりは親不孝者が」というような言葉をはいたりね。「あんたもうほんなこつお気付けでん頂かにゃ罰被るって。
罰かぶらにゃあ分からん」と云った様な心の状態と言う物は、本当にあのう言わばそれとは反対の有難い心というか、いや子供ならね。子供は親の鏡とさえ言われる位じゃから、親自体の改まりの上に持って来てね。こちらが改まって、子供の事を願ってやると言う事になる時に、子供はおかげを受けるのです。ね。私共の思いの働きね、それをこう煎じ詰めると、念と言う事になるです。
だから信心はその念がです、有難い人が助かる程しの念が念じられる様に成る事が信心です。ね。本当に気が付かなかった、解らなかったとは言いながらです、本当に相済まん事を思うたり、言わば恨んだり憎んだり、それがね力のない者がしたっちゃ大した事なかです。けど段々信心して力を頂けば頂く程、ここん所愈々有難い念。言わば心で人を殺す様な、心で人を傷付ける様な思い方を心の中から一掃して、愈々有難い念が発揮出来れるおかげを頂かなければいけないですね。
どうぞ。